「学校って何だろう」苅谷剛彦 ちくま文庫

この本は私の大学入学時に、小・中・高と同じ学校で勉強した友人から受け取った本です。当時の同級生は既に4年生で、最後の1年間だけを大学生として共に過ごしました。
学校の先生になりたいというその友人は、本書の著者から大学で直接指導を受けていました。教育学について熱く語う仲です。「学校って何だろう」という題名の通り、自分たちが当たり前に受けていた教育について、深く考えるきっかけとなれば幸いです。

学校って何だろう―教育の社会学入門 (ちくま文庫)
1.教育とは、座ることから始まる
その退屈な授業が、数学であれ、英語であれ、それぞれの教科とは別に、もう一つ大切なことを学んでいます。本当は自分のしたくないことでも、じっとがまんすること。耐えること。つまり、忍耐力を身につけているのです。
話と内容が貧しい授業は、例え大学生になっても耐えがたい苦痛であります。私の場合、まだ義務教育を受けていた時分の方が、明らかに退屈な授業に対しての忍耐力があったのではないかと思います。今では、面白くない講演会や授業に遭遇すると、直ちにそこから立ち去りたい衝動を抑えることができません。(本当に酷いと帰ります)いやはや、これこそが教育の成果でしょうか。

2.何もかもが教育的見地から判断される
日本の学校では、いろいろな活動が「よい大人になる」ための教育活動と見なされ、教育の範囲に入り込んでくることが多いのです。
「よい大人」と言うが、そもそもまともな大人は圧倒的に少数派だと気付きました。社会とは「大きい子供」が多数を占めているのではないでしょうか。「天真爛漫な中年男性」「少女のように振る舞う中年女性」恐ろしい。冗談のように書いたが、結構な数の該当者がいるかもしれないので、一概に笑い飛ばすことはできません。年齢にふさわしい精神性のためには、それこそ教育の力が必要なのです。

3.他の劇団員からの陰口を恐れる人へ
生徒という役割を演じるうえで、ほかの生徒を一番重要な観衆であるとする見方が強まっているということです。
他人の目を気にする人は多いですが、大抵の場合、他人は自分のことをそこまで注視してはいません。人の評価を気にしたり、バカにされることを恐れたりすることは、ある程度ならば自然でありますが、極度に気にかけるならば、それは自意識過剰と言わざるを得ません。少しでも気になる際は、少数の信頼できる友人にだけ、アドバイスを求めるのが一番です。他人はそれほど自分に対して、興味を持っていないということを肝に銘じましょう。

小松雄也